旧門谷小学校
「そこにあるもの(こと)/そこにないもの(こと) Site/Specific/Object」
鈴木孝幸 名倉達了 丸山勇樹 山口貴子 山口諒 山田沙奈恵 大和由佳
2016年9月3日(土)-10月2日(日) 10:00-16:00 火曜・水曜休 入場無料
http://kadoya-art.com/
旧門谷小学校
愛知県新城市門谷字宮下26 番地
そこには確かに古い木造校舎があります。けれども、そこで学ぶ子どもたちはいません。それは、姿形だけの学校だからです。その場所は時に懐かしさを喚起します。しかし、私たちの多くは木造校舎で学んだことがありません。それはおそらく、多くの人たちに共有されるイメージであり、古いものへの憧憬を含んでいるのではないでしょうか。
もうすでに使われなくなってしまった建物。使われてはいるものの、過去を多分に含む場所。建物や場所は人々の想像を掻きたて、そこに次々とイメージを生み出していきます。人は時間を遡り、過去を想像し、その当時の出来事にまで思いを巡らせるかもしれません。その時間を思う時、そこには懐かしさや憧れ、または廃校であることが喚起する不気味さといった、共同体の中で広く共有される集団的なイメージがたくさん生まれてくることでしょう。
作品と場所。
古い校舎の中に作品が展示される時、そこに周囲との関係性を見ることは、今や当然のことのように思われています。その土地の歴史や習俗との関係性、周辺環境との親和性、周囲への貢献度、そこにあるということの意味、そして、そこでしか成立しないという特異性。しかし、それは時に、固定されたものの見方/作品のつくり方として、人々を縛りはじめます。古い建物が集団のイメージに回収されてしまうのと同じように。ある一つの画期的なものの見方が、時間とともに鮮度の落ちた型になってしまうのと同じ流れで。
そこには確かに古い木造校舎があります。けれども、教科書はありません。教科書がない分、決められた答えも存在しません。そこには、それぞれ異なり、それぞれ違う背景を持つ7人のアーティストの視点、個人の視点があります。周囲を山に囲まれる広大な環境の中で、歴史ある寺院を抱える鳳来寺山の懐で、それぞれの視点が提示するもの。その視点が、場所と深く結びつく、あるいは場所を超えて存在する時、そこにあるもの(こと)は、その場所のイメージとは離れたところで、そこにないもの(こと)について力強く語りはじめるかもしれません。
その場所に足を踏み入れ、真っ白な視点で作品と向き合う/作品がつくられる時、目の前には新たな視点が数多く生まれてくることでしょう。そこにあるのは、そこにあるもの(こと)が喚起する、そこにはないもの(こと)、そこに立つことで見えてくる、新しい場所なのではないでしょうか。場所を超えた場所。集団の視点と個人の視点の交差する。
鈴木 孝幸
(txt/ http://kadoya-art.com より)
「そこにあるもの(こと)/そこにないもの(こと) Site/Specific/Object」
鈴木孝幸 名倉達了 丸山勇樹 山口貴子 山口諒 山田沙奈恵 大和由佳
2016年9月3日(土)-10月2日(日) 10:00-16:00 火曜・水曜休 入場無料
http://kadoya-art.com/
旧門谷小学校
愛知県新城市門谷字宮下26 番地
そこには確かに古い木造校舎があります。けれども、そこで学ぶ子どもたちはいません。それは、姿形だけの学校だからです。その場所は時に懐かしさを喚起します。しかし、私たちの多くは木造校舎で学んだことがありません。それはおそらく、多くの人たちに共有されるイメージであり、古いものへの憧憬を含んでいるのではないでしょうか。
もうすでに使われなくなってしまった建物。使われてはいるものの、過去を多分に含む場所。建物や場所は人々の想像を掻きたて、そこに次々とイメージを生み出していきます。人は時間を遡り、過去を想像し、その当時の出来事にまで思いを巡らせるかもしれません。その時間を思う時、そこには懐かしさや憧れ、または廃校であることが喚起する不気味さといった、共同体の中で広く共有される集団的なイメージがたくさん生まれてくることでしょう。
作品と場所。
古い校舎の中に作品が展示される時、そこに周囲との関係性を見ることは、今や当然のことのように思われています。その土地の歴史や習俗との関係性、周辺環境との親和性、周囲への貢献度、そこにあるということの意味、そして、そこでしか成立しないという特異性。しかし、それは時に、固定されたものの見方/作品のつくり方として、人々を縛りはじめます。古い建物が集団のイメージに回収されてしまうのと同じように。ある一つの画期的なものの見方が、時間とともに鮮度の落ちた型になってしまうのと同じ流れで。
そこには確かに古い木造校舎があります。けれども、教科書はありません。教科書がない分、決められた答えも存在しません。そこには、それぞれ異なり、それぞれ違う背景を持つ7人のアーティストの視点、個人の視点があります。周囲を山に囲まれる広大な環境の中で、歴史ある寺院を抱える鳳来寺山の懐で、それぞれの視点が提示するもの。その視点が、場所と深く結びつく、あるいは場所を超えて存在する時、そこにあるもの(こと)は、その場所のイメージとは離れたところで、そこにないもの(こと)について力強く語りはじめるかもしれません。
その場所に足を踏み入れ、真っ白な視点で作品と向き合う/作品がつくられる時、目の前には新たな視点が数多く生まれてくることでしょう。そこにあるのは、そこにあるもの(こと)が喚起する、そこにはないもの(こと)、そこに立つことで見えてくる、新しい場所なのではないでしょうか。場所を超えた場所。集団の視点と個人の視点の交差する。
鈴木 孝幸
(txt/ http://kadoya-art.com より)