久村卓 山極満博 渡辺望「糸を分ける」

2013年10月5日(土) ‒11月3日(日)
11:00 ~ 19:00 月曜休廊) 
入場無料

gallery COEXIST-TOKYO
東京都江東区木場 3-18-17 2F 
http://coexist-tokyo.com/


● トークイベント:10月5日(土) 17:00 - 19:00
「糸の意図 - 流動的な空間をみること」住友文彦(アーツ前橋館長) x 久村卓 x 山極満博 x 渡辺望

● レセプションパーティー:10月5日(土) 19:00 - 20:30

● サウンドイベント:10月19日(土) 17:00 - 19:00
 笹久保伸(ギタリスト/ 作曲家)と渡辺望による「音」の作品


 かつて私は歴史や批評を縦糸と横糸とみなし、それによって作られる織物に美術作品を位置付ける試みについて語ったことがあったが、それは正しい比喩ではなかった。乱れることがないようにきっちりと歴史と批評が編みこまれることなどないからだ。新しい作品が生れることでそれらは何度でも修正を加えられていくはずである。

 とりわけ、あらかじめ見る者との間に共通認識されているであろう文脈を、素材や言葉にではなく空間のほうに差し向けて作品をつくる傾向において、この比喩は有効ではない。素材や言葉へ自己言及する作品のような可動性は持たず、その場限りの空間をつくりあげ、そこに身体を置いた者だけが経験することに大きな意味が託されるからだ。

 山極満博、久村卓、渡辺望の3人は、空間的な文脈づくりを異なる手法で作り上げる作家たちである。ただし、その空間はかなり流動的な特徴を持っている。見えているはずのものが見えない、見えないはずのものが見える。その理由はおそらく、見ている主体を人間(作者)とはみなしていないせいではないか。ふと思い出すのは、映画の名撮影監督田村正毅が、役者ではなくその場の気配や、前後の時間さえも捉えようとしているような試みである。役者は背を向けていることもあるし、あまり注意を向けない対象が大きく映り込むこともある。意識から逃れる何かを捉え、あるいは捉えそこないながらも、見る行為が持続するような感覚。もしかしたら、彼らは人間ではなく自然を、見るための主体として呼び戻しているのではないだろうか。私たちは見ているのと同時に見られている。そのあいだを揺れ動き続けるような作品が糸と糸の分け目を押し広げる。

住友文彦(アーツ前橋館長)