Robert Wyatt / Sea Song

シー・ソング

唐突だけれど、ロバート・ワイアットというと僕はパウル・クレーを思い出す。パウル・クレーをみていてもロバート・ワイアットを思い出す。パウル・クレーは若い時分に真剣にプロの演奏家を志していた時期があるほどの音楽好きで、その絵画作品にも音楽の論理や作法が頻繁に顔をのぞかせる。そんなクレーのありえたかもしれない別の可能性、クレー的なスピリットの異なる条件化での異なるあらわれとしてワイアットを捉える、聴くというのもひとつあってよいだろうかなあと思う。ワイアットの奏でる音楽はそれこそ画家がひとりアトリエでじっくり時間をかけて紡ぎだすミニアチュールのような精巧さと親密さを備えていて、その人となりとか、考えとかヴィジョン、息づかいなんかが直にまるごと手元に届けられたかのような、プライヴェートかつ柔和な手触りの、何というか、ある種「平熱の芸術」とでもいうべきものだ。そこにはまるでおじいさんが話してくれる昔話のようなのんびりとした温もりもあって、彼のサウンドがスピーカーから流れ始めるとその周辺だけぼうっとあかりが灯ったかのような感じさえする。そしてこういった性質はそのままパウル・クレーの絵画作品の持ち味に重なっていくように思う。そのクレーは押しも押されぬ西洋近代絵画史上の大家のひとりではあるが、他の多くの大画家たちが絵画芸術なるものに真正面からどーんと向かい合っているようにみえるのに対して、クレーには何か夢見がちな作曲家がうっかり絵画の国に紛れ込んでしまったというような所在無さげな雰囲気が漂う。こういうクレーのような芸術家が今日のパーソナルな作曲録音環境を知りえたらば大いに喜んだろうなあと想像したりもする。そう、クレーは絵の具箱をパーソナル・コンピュータのように、デジタルな音響機材のように扱うのだ。クレーは絵画芸術の、それまでとはまた別の用法を発明したのだと思う。さて、話はロバート・ワイアットに戻って、ワイアットの楽曲たちは何度聴いてもそこに新しい発見が得られるような複雑さと奥行きを備えていて、どれも聴き飽きるということがまったくないのだけれど、とりわけ好きでよく聴く一曲をあえて挙げてみるとすると、自分の場合は「シー・ソング」ということになるだろうかと思う。この曲においては歌詞も以後のそれのように直に現実世界にコミットする感じはあまりなくて、少しシュールで観念的、叙情的かつ暗示的ものに留まっており、まあ、とにもかくにも豊潤な詩的喚起力に溢れた、すばらしく繊細な一幅のサウンド・スケープである。特に僕はこの曲の構造、構成のセンスがとても好きで、そしてこの構成感は他の多くの音楽家に大いにインスピレーションを与えているようにも考えていて、要するにそれは、ああこれ「シー・ソング」のストラクチュアだ、という楽曲に出会うことが多々あるからでもある(そんなストラクチュアを僕は個人的に「シー・ソング構造」と名付けています。
まあ、まんまですが)。それはつまりは曲の前半にオーソドックスでシンプルなメロディの部分(ソングの部分)を、続く後半にそのテーマを増幅させたような基本的にミニマルな展開の部分(シンフォニックな部分)を配する楽曲構造のことで、もしかしたらこういう構成のセンスというのは「シー・ソング」以前にも世に多くあるのかもしれないけれど(特にプログレッシヴ・ロックの領域に事例がたくさんありそうですが)、今のところ僕はこのワイアット「シー・ソング」がこの種の構造をもっとも説得力ある音楽作品に仕立て得た一種マイルストーン的存在であろうかなあというふうに考えている。かのジム・オルークの名曲「ユリイカ」などもこの「シー・ソング」の見事な展開の一例であると僕はみていて、オルークに関しては他にもアルバム「バッド・タイミング」の冒頭一曲目でもそれは試されているように思うし、それからそう、ザ・シー・アンド・ケイクのEP「トゥー・ジェントルメン」内のオルークがミックスを担当した一曲などはこの種の構成の金字塔的傑作といってよいだろうかと思う(興味ある方はぜひ探索してみてください)。それから日本のポップスの領域で、忌野清志郎さんをゲスト・ボーカルに迎えた原田郁子さんの「銀河」のような楽曲がこういった構造を巧みに使いながらスケールの大きな世界を精密に表現しているように思えるし、いろいろ記憶を手繰っていくと本当にきりがない(と、書いてふとデヴィッド・シルヴィアンの「ブリリアント・ツリー」を思い起こして久しぶりに聴いてみたのですが、やっぱりいい曲、すばらしいです。思い出せてよかった)。さて、こういったシー・ソング構造なるものが僕にイメージさせるのは、何よりもまず始めにある明確な色合いを持つ強固な世界をきっちり立ち上げて、次にその世界の広がりの度合いをゆるやかに自在に開示していくというような語りの技法、線的な進行の果てに水平的で遥かな拡散へと観者を導くような時間表現の技法であって、例えば上記のオルーク「バッド・タイミング」の冒頭一曲目でも、ピッチの速いギター・ソロでいきなりぐっと未知の海底の深くに引きずり込まれていくような感覚を、続く後半のミニマルなアンサンブルの次第に音の厚みが増していく進行の具合に、暗い海の底から次第に明るい海面に再浮上していくような感覚を僕は強く喚起される。
そしてこういったイリュージョンをもたらす仕組みを的確にも海底の世界の情景に重ね合わせている点でワイアットの「シー・ソング」は実に秀逸で、つまり内容と構造とイメージが一体となって自律し、結果としてタイトに完結した密度の高い小宇宙をつくりだしえているのだと思う。その内部に封じ込められ凝縮されたイマジネーションは本当に強力で、そこには決して説明されず、描写もされない細部が驚くほど豊かにリアルに感じとれる。だから何度聴いても聴き飽きるということがない。聴く度ごとに異なるディティールがはっきりとみえてきて、ゆえに何度でもその内部に探検にいきたくなるわけだ。ところでくだんのパウル・クレーは絵画における線をメロディに、色をハーモニーになぞらえて説明もしており、要するに「シー・ソング」のような楽曲においてA、Bというふうに時間軸上に前後に置かれている構成要素をクレーはその絵画作品において同一平面上に様々なやり方で組み合わせてみせているようにも感じとれるし、またバーネット・ニューマンのような人の絵画作品をみていても、世界を提示することと開示することが絵画平面上の線と面(垂直と水平)にダイレクトにぽんと託されているように思える。そうやって考えていくと、かの古の賢人の「音楽は簡単なものです。打ち始めは盛んで、次第に諸楽器が調和していって一節が終わります」というようなフレーズがふと思い起こされもするし、あとはフランツ・カフカのような人が採った文学の方法が頭の隅を過ったりもして、いろいろと連想は尽きない。と、このような雑多であてのない連想や空想も自分にとっては音楽を聴く楽しみの大切な一部分で、というかそのような様々なおもしろい想像を喚び起こしてくれる音楽こそが僕にとっての「よい音楽」なんだろうなあとぼんやり思う。作品の大きさとはファンタジーの大きさである、という誰かの言葉もふと思い起こされる。 - 蓜島伸彦(画家・絵本作家、2013年BIB金のりんご賞、2015年JBBY賞)



Post by N.Haijima